晴れた日に傘を選ぶ(4)

「うわあっ」
 止まったマスを見て彼女は叫び、腕を少し乱暴に後ろについた。それから体を後ろへ倒す。どさっ。天井を仰ぎ見るその喉。息を吐き出して上下する胸。
「いいよ、これ以上、子供はっ」
 ついに三人目の子供が彼女に宿ったのだ。体を起こしながら、彼女は目をつぶって首を振った。
「もうこれ以上、名前、思いつかないよ」
「名前つけてないじゃないか」
「いつだって心の中ではつけてるよ、名前」
 いつだって、って、いつだ。
「まったく、産むほうの気持ちにもなれよな」
 言いながら、彼女はまるで若い妊婦のように平たいお腹をさする。乱暴な口調とあいまって思わずなんだか笑ってしまった。僕らは、ようやく生命のことについて、冗談を言えるようになった。
「でも、まあ、子供は、どんな子供だって、かわいいよ」
「そうかな。私に似たら、私は嫌だよ」
 笑うところだったのだろうか。曖昧に頷いたら何か言いたげにまじまじと顔を見られた。どこが嫌なの?とでも言いたげな瞳。否定してほしいんだったら最初から言うなよな、と思ったけれど口に出せない。
 僕はたじろいでフォローのように付け足す。
「まあ、僕だったら嬉しいと思うよ、そういうの。似てたりとかさ」
「何が?」
 何が、ってなんだ。

 盤面をにらみ、お茶を飲んでから彼女はいきなり随分優しい声で笑った。ふふ、だなんて、実に女の子らしい笑い声だった。
「しかし、これは、大人になってからやったらきっとすごく面白いんだろうね」
「そうかな」
 僕が懐疑的なことを言うと、そうだよ!と、まるでびっくりしたように彼女は高い声を出した。
「だって、やっぱり私たちはまだ子供で、学生じゃない。人生はどんなものだろうかと考える段階で、まだ就職もしてないし、結婚だって、車の免許だって持ってないんだよ」
「…そうだね」
「でも、大人になって、例えばいつか結婚して、ああ、あの時結婚していなかったらどうなったかな、子供がいなかったらどうだろうか、なんて、考えたり後悔したりするよりもさ、こうやって人生ゲームをやって、そりゃゲームの中だけの話になるけど、ゲームの中で結婚しないようにすればいいじゃない。その方が健全だよ」
 彼女が何を言いたいのかはよく判らなかった。だが彼女は、健全だよ、と少し低い声で繰り返し、それから髪を投げやりに後ろへ払った。
「とりあえず、浮気現場が見つかった分の12000ドル払う」
 彼女は頬を膨らませて、僕へ12000ドルを差し出した。
「これって慰謝料なのかな。それとも罰金?」
 さあ、どっちでしょう。
「でも、なんか決定的だな、金額的にも、シチュエーション的にも」
 独り言のような彼女の呟き。

 結局人生ゲームの最終成績は、二人ともフリーターのまま、お互い結婚だけして、それぞれ家は持たず、僕は選挙に出馬したことを、彼女はベストセラーの恋愛小説を出版したことだけをめぼしい思い出に、ゴールへたどり着いた。生命保険が必要になるマスには二人とも止まらなかった。さらに言えば、遅れて着いた僕の方が最終的に貯金が多く、勝敗と着順がひっくり返る結果となった。彼女はぶつぶつ文句を言って、挙句、貯金ではなく子供の数で勝敗を決めようとまで言い出した。ちなみに子供の数は彼女が三人、僕は一人だった。
「起伏の少ないゲームだったけれど、これは、いや、これこそが、言ってみたら人生みたいなものなのかもしれないね」
 うっかり僕がまとめると、彼女はううと唸った。私の方が断然うまいこと言える!と僕をにらみ、彼女は盤面の上空で何かを握るような動作をした。空を掴んだその手を、揺らす。
「私、今から人生について、すごい格言を言うよ」
「どうぞ」
「人生はお金じゃないよ!」
 大人気ない彼女に僕はうっかり声を上げて笑い、自分で言っておいて彼女も笑った。

 僕は彼女の笑顔を見つめながら思う。僕らはきちんと幸せに向かって歩いているだろうか。僕らは今、いったいどのマスに止まったのだろうか。
生命保険に加入した時に彼女の言った、晴れた日に傘を探すというのが、実際には何の比喩なのだか、実はあまりよく判っていない。だが、だからこそ、とりあえずは傘を探そうと思う。再来週あたりまで、週末はずうっと晴れているらしい。だから、とりあえずは現実の傘を探そうと思う。僕も、そして出来るならば彼女も気に入るような、手触りのよく、広げた時の音もさっぱりした、はっきりした色の傘がいい。

 なんだか車のとおるような音がしたのでふと窓の外を見ると、さああ、と夕立が降り始めていた。雨の音以外聞こえなくなる不思議な静けさ。彼女は気付いて僕の目線を追いかける。
「なになに、流れ星?」
 言いながら窓の外に目をやって、なんてことだ、傘持ってないよ、と彼女が悲痛な声を上げた。もし今、このタイミングで、晴れた日に傘を選ぶ話なんかを持ち出したら、揶揄されたと思って彼女は腹を立てるだろうか。想像したらおかしくて、少し笑った。

(おわり)