晴れた日に傘を選ぶ(3)

 私さ、と彼女は窓の外を見た。そっぽを向いたまま彼女は、自分の車の助手席へ、水色のピンをさしている。結婚の選択を迫られるマスに止まったのだ。そこでは、誰しもが結婚するかしないかを決められる。
「本当の私は、結婚はしないと思うよ」
 それまで饒舌だった彼女は、言ったっきり無言でピンをさして、ルーレットを回した。結婚したプレイヤーは、出た目によってご祝儀がもらえるのだ。かろかろとルーレットは回り、そして止まる。僕は無言のまま、3000ドルを彼女に手渡した。厳粛な面持ちで彼女はそれを受け取り、厳粛な様子で車を盤面に戻した。結婚について、僕はそれ以上追及しない。彼女が追及されたくないのを知っているからだ。
「私の」
 彼女は、さっきより遠い口ぶりでもう一度何かを言いかけた。
「いいや」
 投げやりに髪を払いのける仕草で、僕は彼女の考えていることを知る。

 彼女には、妹がいた。今はもういない。それだけだ。僕にも弟がいた。今はもういない。それだけの話だ。彼女は妹のことを考えるとき、まるで記憶ごと振り払うように髪を払いのける。きっと今も、彼女は妹のことを考えている。少し遠い目になった彼女の横で、僕は、僕の弟のことを考える。彼女の妹と同じように、僕の弟も、今はもういない。僕たちは隣同士で、遠く、遠くへといなくなってしまったそれぞれのきょうだいのことを考えていた。生まれたときすでに、神様から、決して大人になれないと決められていたきょうだいのことを考えていた。

「僕は、出来れば結婚したいな」
 遅れてたどり着いた結婚のマスでピンクのピンを差す。別に挑発するつもりではなかったのだが、こっちへ顔を向けて彼女が座りを直した。人生ゲーム越しに僕をまっすぐに見る。
「そうかな」
「…そうだよ」
 まるで挑発するような言い方に一瞬怯み、それでも言い返すと即座に追及が返ってきた。
「なんで」
 追及する彼女の目は、遊びの延長線みたいな目つきではなかった。ひどく大人っぽい目だ。曖昧な返答を許してくれそうにない目つき。彼女のスイッチが入る瞬間を、僕はまだ把握できないでいる。
「だってさ」
 とりあえず接続詞をつぶやき、無理矢理それに続けて返事をしようとしても、口がうまく回らなかった。茶化したら彼女はきっと腹を立てるだろう。一般論にも怒るだろう。だったら言おうと思った。僕だって、他の人と同じような人生を送ってみたい。そう言おうと思った。弟のことを忘れて。メンデルのえんどう豆のことを忘れて。僕も、皆と同じ、疑いのない人生を、僕も。テレビドラマのような、平凡で波風のない人生を、僕だって。
「僕はさ」
 口を開きかけて、やはり僕は一瞬言いよどむ。
「僕だって、」
「君は、人生というものをしらなすぎるね」
 まるで無理矢理かき消すように遮って、彼女はつんと顎をあげた。はっと僕は口をつぐむ。なぜだか、ほっとした。どうしてほっとしたのか判らないまま、僕は彼女の鼻の頭を見る。彼女はまるで演説するように、立てた片膝へと腕をおいた。横柄なポーズ。饒舌な、本当に考えながら喋っているのか判らないくらいに流れる美しい、彼女の言葉のリズム。
「人生というものはさ、流れ星と同じなんだよ」
「…」
「摩擦して、燃え上がって、ぶすぶすいいながらさ、君の頭めがけて突っ込んでくる隕石も、遠くに住む人から見れば、あら、綺麗な流れ星、程度のことなんだ。そういうものなんだよ。遠くにあるから綺麗だと思っていたら、実際は君の脳天をカチ割る隕石だってなんてのも、よくある話なんだ。だからね、結婚が幸せだとは限らないよ、杉里くん」
 彼女の声が体に染みてゆく。声と調子に聞き惚れながら、でも、今のたとえ話、「よくある話」ではないよな、とひそかに僕は思った。
「なんだなんだ、杉里くん、なんて顔を」
 彼女は腕組みをして、上げた顎をゆっくりと戻した。斜めに僕を見る。慎重な、水の底を覗くような目だった。
「ダメだよ、あとで取り返しのつかないようなことを言っては」
 僕が言おうとしていたことがなんなのか、判っていて諭すような口調ではなかった。ふざけた口調でもなかった。ただ彼女は、まるで薬缶に触ろうとした子供をたしなめるように微笑んで、静かに首を振った。
「そういうのは、もっと大人になってから言えよな」
 いつもより低い彼女の声。

 続く彼女の咳払いまで、部屋の中は妙な緊張と沈黙でいっぱいになっていた。咳払いの後、うって変わって彼女はとん、と盤面を叩いた。
「どうでもいいけど、生命保険、入るの?入らないの?」
 少し意地悪そうな、きらきらした目だった。彼女の声で一編に空気が変わる。
「続けようよ。ほら、人生は続く、人生ゲームも続く!」
 結婚のマスでは、幾らかのお金を払って生命保険に加入することが出来るのだった。いいや、お金もったいないし、と拒否すると彼女は勝ち誇ったようにひらひらと自分の保険証書をかざした。彼女はさっきの結婚のご祝儀で生命保険に入っていた。
「杉里くん、いいかい、人生に必要なものというのはだね、晴れた日に傘を買うようなものなんだよ」
「傘?」
「必要になってから慌てて探したって、ほんとうに気に入るものなんて見つからないんだ。だから、晴れた日にこそ、お気に入りの傘を捜してお店を歩いておくべきなんだよ。わかるかい、杉里くん、わかんないだろ」
 機嫌よく言い放って、彼女はくちびるに保険証書をあてるようにした。
「君は、ばかだからね」
 そして、んふふ、と含み笑いをして、気分よさそうに彼女は笑った。

(つづく)