web無理心中についてのこと。

最近webの界隈では、言葉は自分のものだ、と思っている人が多いんじゃないかとか考えます。今にして始まったことではないのだけれど、ちょっとかなしい出来事が多すぎるんですね。
このところ僕がもっともかなしい、と思うのは、平気で閉鎖したりしてしまうサイトが多いということであります。webに絶望したか一旦生まれ変わりたくなったかは知りませんが、そういう人は、自分の作ったものを纏めてどこかの世界へ連れて行ってしまいます。webの海には痕跡一つ残しません。

火が消えれば煙が残る、煙が消えてもにおいが残る。

高橋葉介を引用に置かなくても現実世界はそのとおりで、人が死んでも何かが残るんです。地面が蒸発してしまうような高温の火に飛び込んで死んでも、何かは残るんです。愛してくれる人が誰一人いなかったとしても、誰かの心にきっと残っているんです。痕跡を残さない消え方は、不自然なんです。
死にたい時というものは多分、誰だってぺかっとまるで手品みたいに消えてしまいたいと思っているんじゃないでしょうか。でもそれは叶わないことで、仕方ないから僕たちは生きていくんではないでしょうか。
僕は、時折webから消えたふりをしてしまうこと自体は別に悪いことだとは思いません。機嫌がいまひとつで、なかなか電話に出なくなるようなものだと思っています。けれど、その気まぐれに、それまでwebに撒いた言葉まで連れていかないでほしいと思うのです。それは、少し筋違いだと思んです。自分が作った物語や、絵や、その他のたくさんのものを、「自分の作ったものだから燃やそうと捨てようと自由」というのは、ちょっと違うと思うんです。それは、まるで無理心中なんです。
僕の目にはとても野蛮に映ります。他人を攻撃するならともかく自分を傷つけるなら誰も文句は言わないでしょう、と突きつけられているような気分になります。

だから、僕は自分の作ったものを一切合財削除して、まるでそこに誰もいなかったかのような状態にしてwebからいなくなろうとする人をあまり好みません。さびしいことだと思います。僕は、今日も消えてしまうサイトの跡地を見ています。消されてしまった物語たちの無念を思います。
webの世界では今日も、本当に無理心中が流行しています。かなしいことです。