悪について。

悪について、ぎぶろぐでいくつか触れられていたところがある。
ゆえにわたくしは今たいへん眠いのであるが書こうと思い立ったのである。

悪意とは、先を見ないものであると僕は思う。ごくごく短いスパンでの最適行動こそが悪意による行動と見なされるものであると思う。
たとえば、仕事をサボって誰かに押し付けるだとか、たとえば、責任をなすりつけて自分は白を切るだとか。
これらの行動は、今日と明日だけを見れば「楽できてラッキー」「責任とらされなくてラッキー」ではある。しかし大局的に見れば最適行動にはなりえない。見てないようで皆意外と見てるし、意外と見てる人は意外と喋る。しょもない嘘はすぐバレる。
つまり、目先だけの利益に固執して、長期的な視野を持たずに行動する意志のことを、悪意による行動と定義してもよいのではないだろうか。

これは判りやすく言えば、悪の組織のしている行動などにも見受けられる。たとえば、銀行を襲うのはいい。だが、毎日毎日銀行を襲ってばかりいたとすると、いつかは捕まってしまう。木阿弥である。もしもそこで、捕まらぬために知恵を凝らして毎日各地の銀行から百億円強奪し続けるとする。毎日何百億円づつ抜かれては、いくら国家経済とはいえたまったものではない。経済は傾いて日本は沈没。結果、せっかく手に入れた大金も紙くずである。やはり木阿弥である。
悪の組織がその辺りのことを考えているのかどうか判らないが、悪意というものはその先に何も建設しないことが大前提である。そら、北斗の拳を見たまえ。モヒカンが老人の持つ発芽玄米を強奪する。「明日の芽吹きよか、今日の麦ごはんだぜヒャハハハア!」…悪役は明後日の栗ごはんのことまでは考えないのである。
建設せず、ただ搾取し、大地をやせ衰えさせてゆく。これこそが悪意である。悪意というものは、だから、何かに向けられるという類の物ではないように思う。繰り返しになるけれども、悪意というのはつまり、間違った最良行動を選択するエゴイズムのことだ。

人間、まの抜けたものを憎むことは少ないのではないかと思う。消しゴム拾おうとして机でデコぶつける女子高生を、「かっわいー」とは思えども、「その仕草、不快だ!」と思うものは少ないのではないだろうか。
しかし、ひるがえって小ざかしいものについては無条件で怒りを覚えるものである。透けて見えるその場限りの嘘や、透けて見える意地汚さ、透けて見える怠惰など、中途半端に知恵を使っている馬鹿を見ると、腹を立てるものなのではないかと思う。
たとえば想像してみて欲しい。オッサンがあなたに話しかけてくる。「休日、普段何してるの」から始まって、面倒なあなたは適当に返事をするだろう。「いやあ、大概寝てますねえ」。オッサンは続ける。「じゃあ今週も日曜は暇してるんだ?」あなたは言う。「まあ、たぶんそうですねえ」そして、それを聞いたオッサンは、まるで当然のように用意していた最後の言葉につなげるのである。「用事がないならば申し訳ないけれども今週日曜出勤してもらえないかね」

このオッサンの意図が第一声から全て透けて見えたとしたら、不愉快になりませんかね。グダグダしたことはいい。機嫌取りの世間話も不要だ。用件言え用件。みたいな。
要するにこれが「小ざかしさ」である。
短いスパンで見れば、相手の外堀から埋めて断れなくしてから用件を切り出す、なるほど。一見、自分の要求を通すには上策であるように見えるけれども大局的に見れば大いに不利である。だって「こいつはこういうことを言うオッサンだ」という認識受けたらその後、もう二度と楽しい会話なんかはしてもらえないに決まっているし、次回に同じ手は使えない。身構えた相手に要求を聞いてもらうのって、なかなかに大変である。つまり、オッサンは短いスパンでしか見てないのだ。
「今回だけ言うことを聞かせる」というその一点のみ。それは、前述に照らし合わせて正しく悪意であると言える。短慮と悪意は非常に近い。今日の麦ごはんを選んでしまうタイプだ。

そういう意味で、真のうすらばかと悪意の塊は非常に似ている。どちらも明後日生き延びる方法を考えない。その場しのぎでただグダグダと生きているのである。しかし、無能に悪意はない。無能はただ取り繕わないだけで、悪意があるわけではない。この二つは区別しなければならないなあ、と思う次第なのである。

なぜなら、無能は悪意とちがって「自分に得である」と思って行動するわけではないからだ。無能が悪意に似た行為をとるのは、「怒られたくない」とか「恥をかきたくない」といった逃避から来るものであることが多いからだ。そう。彼らは無能である。たとえ短期的にでも自分の利益だけを追い求めるような計算高さなどの能はない。
この違いは大きい。
なぜなら、無能な人びとは「圧迫しない」「やさしく接する」「キャパシティに見合った仕事を与える」といった行動をとられることで、たやすく悪意に似た行動から離れてゆくからだ。彼らの悪意に似た行動は殆どの場合能動的なものではなく、反応的なものであることが多い。つまり、無能を悪意に取るのはやめましょう、というのはそういうことなのである。無能に根ざしている、悪意に似たアクションは、対応次第で減らすことが可能なのである。*1

一方、悪意に根ざした行動をとる人々につける薬はない。彼らは相手が優しかろうとなんだろうと、自分の利だけを浅はかに追い求めるからだ。彼らを黙らせるには、一度徹底的にやりこめ、自分の浅はかな行動の引き起こした不利益を、部屋にウンコした犬を叱るような即物的な勢いで目の前に突きつけてやるしかない。

「無能を悪意に取るのはやめましょう」という格言が示すもの。
それはつまり、無能な人にガミガミ言うのは無駄であるばかりか逆効果であり、一方、悪意に対しては決然と対決しなければならないのである。そこを見極めなくては状況は悪化するばかりだということなのだ。

と、あたい思うわけなのよ。まる。

実際のところ面倒くさいので僕、その辺り見極めるだけ見極めてノータッチ。カテゴライズだけしてスーパースルーが基本スタンスです。いやな子です。

*1:ごくたまに、ほんのごくたまに、無能のリミッターの外れた人々がいる。彼らは常識をはるかに越えるレベルで世界の事物を自分用に再構築し、解釈し、人知を超えたことをしでかす。彼らはある種の天才である。我々衆愚は、決して天才を糾弾する愚を冒してはならない。