文学フリマレポート。

えーと、昨日、おおまかなあらすじは書いた。ので個別に覚書としてできるとこまで。

  • 買ったもの・頂いたもの。感想など適宜追加。
    • 臨時増刊号『反省文図鑑』
      • キクバナ編集長号令のもと、まりまさんと僕と三人で作った同人誌。僕漫画描きました。今数えたら6ページ。思ったより描いてました。自分の原稿を渡して、初めて目にする完成本。手前味噌ではありますがたいへん面白かった。いや、贔屓目抜きに面白かったんじゃないかと思うのだけれど、今のところ外部の方からのレスポンス待ちの状況です。でもたぶん面白かったんじゃないかと思うんですけど。ちなみにお値段は未定でしたが300円で落ち着きました。在庫まだ少数残っておりますれば、おとりおき・通販なども。
    • 『猫またぎ』
      • キクバナさんの個人誌。年若い女子層に大人気。足を止めるオサレな女性層はみな釘付けでした。内容は猫好きの描いた猫好きのための本。早速会場で読ませてもらってご本人にも感想を伝えたのだけれど、インパクトある語感である『猫またぎ』と、内容との関連性が薄いのが唯一の難点でしょか。中身は正当な猫萌え掌編とまんが。
    • 『WOTAGA(1・2)』
      • まりまさんの個人誌。サイトにて連載中のお話。大同人物語。楽しみに読んでおります。読み返して気付いたのだけれど、主人公二人の「本名」って表記されてないんですね。おおー、とか思いました。なんか婦女子の同人の世界を覗いた気がします。などといいつつ僕なんかもぜんぜんヲベロンさんとか呼ばれてはいはい返事とかしちゃうんですけどね。本名知らないお友達も多いんですけどね!
    • 『戦争文学がこんなにわかっていいかしら。』
      • 白水Uブックス研究会さんの本。存外身近になってきた戦争のことを考え、戦争のものを書いておこうと決心した今日のヲベロン太。ちょうど見つけたので現在の戦争モノというジャンルのアウトラインを見てみようと思って購入。取り上げられていた『となり町戦争』は人に貰って読んでいたし、『夕凪の街 桜の国』も考えてみれば戦争の話だということなどもあって。
        読んでみての感想では、やはり対談が面白かったように思います。本というのは読む人が十人いれば十通りの読み方があるというか、僕の思ってもみない意見などがあってたいへん面白かったです。機会があればちょっとやってみたいな。こういうの。
        • 『となり町戦争』についての座談会。
          僕はこういったハイソサイエティな集まりに出たことがないのでアレなのですが、対象の本を読まずに参加する、というスタンスって割と容認されてしかるべきなのかしらん、というところがちょこっとだけ引っかかりました。構成上、読み物としてすこし息を抜く要員としてのリライトなのかな、という気もするのですが、そこまでずうっと当該作品について話題の焦点と各自の論拠が明確だったせいか、不意に「雑談」というかちょっとぴしっとしなくなってしまった感じがちょびっとアレでした。
          どうしてこう重箱の隅をつつくことを言うかというと、まあ、以前どこかで書いたかも知れませんが、友人の遭遇した「卒論小説を読まずに面接して、そんなの読まなくても程度が分かるよと言い放った院試の面接官教授」のことが頭によぎって、なんとなく釈然としなかっただけの話なんですけれども。
          ちなみに僕が『となり町戦争』を読んで思ったのは、セックスの話が頻繁に出てくるけれども、どの場面も一切幸福そうじゃないなあ、ということでした。肉感がないというか。これ前書いたっけ。なーんかふわふわしてて、空想上のそれのように感じたんですね。戦争の起こっている日常では、それまでの日常にあった行為もちょっとずつズレてしまうとか、そういう表現なのかなあと思って読みましたけれども。あとは僕も『猛烈なフレーズ』と『キュロット』については同様に違和感をおぼえました。
        • 『夕凪の街 桜の国』についての座談会。
          目を引いたのは『「やった! またひとり殺せた!」とちゃんと思うてくれとる?』というフレーズについてのくだり。僕などはこのフレーズ、「戦争が終わった」という言葉へのうらみのようなものじゃないかと思ったんです。たとえば「この日この瞬間に戦争が終わった」、ということになったとしても、その五分前に鉄砲で撃たれた人はいるわけで、その人は血を流しながら戦争が終わった後の世界で死んでゆくわけで、だとしたらそれは「戦争で死んだこと」になるんだろうか、とちょっと思います。そのスパンがどんどん広がって、戦争が終わったあと、十年二十年経って原爆の後遺症で死んでしまうということは、果たして「戦争で死んだ」ということになるんだろうかと思うのです。戦争が終わったのに戦争で死ななければならない、というのはとても無念だと思います。戦争が終わってから時間が経てば経つほどそれはつよい思いになるのではないかと考えます。人間はたぶん、無意味に死ぬことには耐えられないんじゃないかと思うのです。だからせめて、自分は誰かに憎まれて死んでゆくのだと考えることが、その人にとっての救いになったんじゃないかと思うのです。死ぬことを前にして、誰かから憎まれていることを想像すること以外、なにひとつ死んでゆく身の救いにならなかったという絶望を、僕は感じました。原爆を落としたアメリカ人個人や、戦争を起こした人や、国に対して恨むような気持ちに「なれない」、もしくは「ならない」という部分が戦争のもっとも象徴的な部分ではないかと思うんです。
          それは「誰に隠されたか判らないけれど確かになくなっている上履き」のようなものかと思うのです。彼女はただ、下駄箱の前で立ち尽くすしかないのです。せめて、理由を。どうしてなのか知りたいと、人は思うものではないでしょうかと、僕は考えるのです。

というか、思ったより戦争文学の話が長くなったので一旦中座。つづきは明日以降に。