第四回文学フリマに思う。

正直、今回もなかなか面白かったです。

ただもやもやと、気になることがあったのでひとつ。帰ってきてから、ほかにどんな人がこのイベントに参加していたのだろうと思いつつはてダのキーワードたぐって読んだりして、ちょっと落胆したりしてしました。
や、自分のところの本を買ってくれたはてダユーザーがいないというのではなく、もう少し別のところです。目当ての品を買って、そのままどこも見ないで帰ったという記述がほんっとうに沢山目に付いたのです。いやね。別にいいんですよ。その行為自体はなんの問題もないと思うんです。でも別にそれは、あえて、取り立てて書くほどのことじゃあないと思うんです。
たとえばカレーを作ろうと思い立ってスーパーに行ってジャガイモを買って帰ってくるとします。そのことを日記に書くとしたら「カレー食べたくなったのでスーパーに行ってジャガイモ買って帰った」でしょう。そこであえて「カレー食べたくなったのでスーパーに行ってジャガイモ買って、魚売り場は一切覗かずに帰った」と書く人はごくマレじゃないかと思うんです。そう書かざるを得ない人は、自分が魚目当てにスーパーに行くような人間ではないと主張したいか、魚を本当に憎んでいるかどちらかだと思うのです。
つまり、なんというか、文面のうしろに「僕が出かけたのは同人誌目当てなんかじゃないですよ」というエクスキューズのようなものが透けて見えてなんとなく落胆する次第なのです。ま、ほとんど言いがかりなんですけど。

野暮を承知で申し上げますと、文学などというものは心に余裕がなければ出来ないものだと思います。たとえば極貧にあえいでいてもまだ文章を書く、本を読むというのが心の余裕であります。読書などというものは、日々の暮らしに無理矢理ねじこむようなものではないのです。「日々の僅かな合間を縫って読むのだから、必要な本や価値のある本以外はまったく読まない」というのはけっして「余裕」ではないのです。
たとえば財布に余裕があるから本を買う、財布に余裕がないとしても博打で面白そうな本を買う、買って読んで面白くなくてげんなりする、あるいは面白くて高揚する、買った本の不出来に怒りこそすれ後悔はしない、それがブンガクという余暇の自然な過ごし方ではないかなあ、と思うのです。
本や物語を、それこそ情報として消費するとか、友人間の共通言語としてただ所有するとか、ただ渇きをひととき癒やすために浪費するというのは決して洒脱なこととはいえないんでないかなあ、と思うのです。そこには余裕がないんです。だから、僕は「あらかじめの成功予測に従ってしか行動しない」という、システマティックな思考ルーチンにちょっと落胆するわけであります。システマティックな思考ルーチンとは、平易な言葉に直すと「面白いと推薦されたもの以外ぜったい触らない、冒険しない」とか「焼肉屋で、見たことのない名前のメニューはけして注文しない。カルビとロースしか食べない」というようなことです。

ここで何もご存じない方のためにようやく具体的な話をすると、今回、プロのラノベの作家さんが出展してらしたそうなのです。そしたら、会場の外にものすごい行列が出来まして、開場とともに入場制限、行列の人の多くは目当てのその作家さんの本を買ったら他のブースはスーパースルーして帰っていったようなのですね。
その開場三十分前から並んで開場五分後に帰ってゆく人々を横目で見て、うわあなんだろ、と思った次第なのでありました。という話。
およそ本を買う人を僕は一律で愛しているのだけれど、でも、なーんかちがわないかな、と思ったんですよ。よよよ。
ま、いいんですけど。いいんですけど。…ちがうな。いくないけどいいです。これだ。
いくないけどいいです。
ちなみに、これはあくまでも「読書に向き合うときの心の余裕」についての話でありますから同人仁義がどうのとかラノベがどうのとか自分のサークルの売れ行きがどうのとかそういう話とはまったく関係ありません。むしろ今回はいつになく売り子の人が華やかに売ってくれたのでたくさん売れてうれしかった。
つって、久々にキーボード叩いたら愚痴になっちった。でもいいんです。愚痴じゃないです。文章は最初と最後の二行を読めばわかるんです。そういう風に書いてるんです。

たくさん読んでもらえて楽しかった。