漫画と恋人。

わたくしの交際相手は絶望的に漫画を読まない。
…ので文化的にかわいそうな人だなあと思って「のだめカンタービレ」を薦めてみた。もっともこの漫画、わたくしは未読なのである。だがしかし周囲の反応や、わたくし自身も勧められたりしたことでもあり、読めば面白いであろうということはわかっている。未読なのは、保存してあるゆえである。それはいつかわたくしが本や漫画に対する絶望をおぼえたときのための、未来(の自分)への遺産なのだ。まだ読んでない面白いものがあるというのは活力になる。アレを読むまで死ねない、とかとか。
…話が逸れた。薦めた話であった。
薦めた結果、漫画を読まないひとはすっかり「のだめカンタービレ」にハマり、電話でのだめの話ばかりするようになった。
手始めに、のだめの本名を教えてくれた。政治家みたいだというと憤慨された。メールなどで時折、ですますの「です」を片仮名で表記するようになった(もっともそれがのだめの影響であることを知ったのは、随分後である)。のだめにはモデルになった実在の人がいるんだよ。のだめのCDが出ててね、と電話口でそれを歌う、歌う。
ここで実を言うとわたくし、ほんのちょっぴりだけ、オタの恋人を持ってしまった非オタの女子高生の気持ちがわかった。わかってしまった。
まったく知らないものについて熱弁をふるわれるのはなかなかにこそばゆい。
あー、なに言ってるかわからないけどそれがこの人はすごく好きなんだなー、と思う。もっとも、その人の好きなものにつよく興味を持つわけでもない。
こっちだけを見てよ、とも思わない。むしろちょっとだけ安心する。このひとも夢中になれるものがあるひとなんだ、ということに。それから、そのことに嫉妬を感じない自分自身にも。
誰だったかが、「オタ以外でオタと付き合う一般女は、『オタを許容できる包容力のあるワタシ』に酔った自己満足女に外ならない」というようなことを書いてるのを目にしたことがある。その時は、最近なんかヤなことあったんだろうかこの人、などと思ったものだが、この安心感は乱暴な言い方をすれば確かにそういう言い方もできるのかも知れない。「外ならない」、というのは少々言い過ぎだけども。
相手が違う人間であり、わからない部分があるのを認めるのは必要だ。認めてもらうのも大事だ。どんなに好きでも、深い関係でも、それぞれお互いが別の人間であることを頭に入れておかなければならない。
健全な孤独と、温かい無理解がそこにはある。
この人のことぜんぶ理解しなきゃ、と追い立てられるように続く関係より、どこかに可能性を遺しながら別れてゆく関係の方が愛があるように思う。もちろん、そりゃ当事者にとってはそんな悠長な話じゃないんだけども。でも、それでもきちんと選択し、結果傷つけたり傷ついたりしてゆくことは大事だ。大事だと思うのだ。

まあしかし、おかげでわたくしも、随分のだめに詳しくなったものだ(びたいちページとして読んでないのに)。
何、じゃあ普段でも「ぎゃぼー」とか言うの?と聞くと、相手は一瞬黙った。
い、言う訳ないでしょ、言わないよ、言うはずないでしょお。
三度否定する憤慨した声。でもその声は確かにちょっとだけ「ギャボー」、やってみたそうだった。今度、何かちょっとした機会があればカギで脇腹などをつついてやろうかと思う。