『あの娘はいつも』

 長沼未幸は、いつもわたしの後をついてくる。

 彼女はいわゆる元いじめられッ子というやつらしく、人との距離をとるのが壊滅的に苦手だ。そのせいで、あからさまな愚鈍でも奇妙な癖があるわけでもないのに転校してきた初日から、目立った女子のグループから弾き出される始末。そして行き場所を無くして数日うろうろした挙句、わたしのところへやってきた。帰る方向が途中まで同じだということや、わたしがいつも一人で座っていることなんかを目ざとく発見したらしい。同種の人間を見抜く力だけは一人前、ということなのだろうか。長沼未幸はそのことをあからさまに口に出したりはしなかったが、いかにものいじめられッ子である長沼未幸に、付け入る隙があるだなんて思われてしまった自分を、わたしは呪った。それまでは別に、長沼未幸のことを好きでも嫌いでもなかったが、一遍に嫌いになった。
 けれど、わたしは、一緒に帰っていい?と尋ねる長沼未幸に対し明確な拒否をするでもなく、べつに、と少し冷たく返事するだけにとどめた。長沼未幸はまるで初めて友達が出来た中学生のような、無防備な笑顔で、ありがとう、とわたしの手を握った。わたしはその手を振り払わない代わりに、返事もしなかった。長沼未幸の手は、やわらかかった。

 他の人がわたしのことをどう思っているかは知らないが、わたしは、人を好きになったり嫌われたり、そういうことにエネルギーを使うことについて、もう、充分すぎるほど疲れていた。わたしがクラスで孤立している理由は、実は長沼未幸が転校してくるずっと前の、恋愛問題にあった。その頃のわたしは入学したてで、誘ってきたクラスメイトと何度か映画に一緒に行って、なりゆきでなんとなく付き合うようになっていた。最初はそれなりに幸福だったが、よくある話である。彼は、わたしと、別のクラスメイトにいわゆる世間一般で言うところの二股をかけていたというわけだ。付き合いだした時期の差があって、彼の正当な所有権は向こう側の彼女に認められることになった。そうなってみると問題の彼も、わたしとのことは浮気だったということにしてしまうことが得策だと気付いたらしく、いつのまにか誘ったのはわたしだということにされてしまった。問題の彼女と、わたしよりは彼女と親しい彼女の友達二人と、彼と、わたしの五人で臨んだ放課後の屋上で彼は、自分の口ではっきりと過去を改竄したのであった。

 彼の所有権を巡る事前の女裁判で、すでに一方的かつ完全な敗北を喫していたわたしには、もはや発言権も、発言する気力さえも残っていなかった。昨日まで友人であった女子たちが泥棒猫たるわたしの敵に回り、唯一味方のはずだった彼からも裏切られたのだ。わたしは、一切何も反論せずにその場を後にした。ばかばかしい、と呟いたのは、精一杯の見栄だった。本当は悔しかったし、これからのクラスでの自分の扱いを考えると目の前が真っ暗になった。しかし、それは現実なのだから受け入れなくてはならなかった。わたしは、わたしから彼を取り戻したクラスメイトに対し、もうこれからはあなたたちには関わらない、という誓約をさせられた。そのかわり、彼女たちもこれからはわたしには関わらないという誓約をもらった。それは果たして平等といえるのかどうか疑問だったが、この先もずっとそのことで責められ続けるよりはましだった。
 かくしてわたしは幾人かの友人と恋人を失い、気高くもない、ただの敗北者となることによって、孤独という果実を手に入れたのであった。
 わたしには関わらない、という約束を彼女らが破ったのか、それとも約束をする前に言いふらしていたのか、翌日から面白いようにわたしの周りから人が引いていった。別段表立っていじめられることも無視されることもなかったが、付き合うには一線を画すべき人物、ということでわたしの評価は定まったようだった。人生の引き潮、とわたしはこの出来事を日記に書き付けた。
 その引き潮以来わたしは、自分が、あらかじめ口数が少なく、近寄りがたい雰囲気を醸し出す人物であったように振る舞うため、いくつかの努力をした。髪も肩の長さまで切って、前髪も伸ばした。普段から話し掛けにくいように、空いた時間は常に難しい本を読んでいるようにした。
 それまで別に非社交的な人生を送っていなかったせいか、しばらくは苦痛だったがすぐに慣れた。もしかしたら、もともとわたしには、孤独を愛する素質があったのかもしれない。一月もしないうちにわたしは一人で昼食を済ませることにも慣れ、友人を頼るよりは保健室を頼りにする高校生へと移行を終えた。レポートやらスケジュール管理やら、人の力を借りず、すべて一人でするようになったので必然成績も上がった。もちろん、だからといって、あのことを結果的にはプラスだった、などというような気分にはなれない。それはやはり、思い出すたびに苦い気分になる、いやな思い出だ。

 長沼未幸はそのことを知らない。言うつもりもない。選りにも選ってわたしにすり寄ってくるくらいだから、他のクラスメイトと仲良くできるはずもない。わたしの評判について聞くような機会があるとも思えない。
 しかし、それにしてもどうしようか。
 わたしは、二年ぶりにわたしに近付いてくる人間を前にして、幾分戸惑っていた。しかし今更、転校してきたばかりの元いじめられッ子と馴れ合うほど、人間関係に飢えているわけでも渇望しているわけでもない。一人の方が断然気楽でいい、と思った。わたしは、今までどおり、とっつきにくい人間であることを続けることにした。むしろその仮面はすでにわたしにとって演技ではなくなっていた。
 長沼未幸もそのうち、嫌になれば離れていくだろうし、離れていけばそれまでのことだ。辛くない。別に想像してもそれは辛いことではなかった。もうわたしにとって、いなくなられては困る友人なんていない。まして長沼未幸は、わたしにとって、友達ですらないのだ。

       *

 いじめられッ子独特の、おどおどした調子で、その癖遠慮なく長沼未幸は、中杉さんのこと、園子ちゃんって呼んでもいい?と尋ねてきた。一緒に帰っている最中だった。わたしはわざと返事をしないで彼女のほうを見た。なるべくつめたい目をしてやろうと思ったのだが、その少し怯えたような目の色を見てしまうと、意地悪さを継続することも出来ず、わたしは自分のほうから目を逸らした。べつに、とわたしは小さく呟いて歩きつづけた。もやのように、出口のないものが喉の手前でつかえていた。

 相手の返事に怯えるくらいなら、言い出さなければいいのに。
 そういう調子だからいじめられるのよ。
 せっかく転校で人間関係リセットしたのに、それじゃ意味ないでしょう。

 わたしはそれらの言葉を飲み込むでもなく、吐き出すでもなく、喉のところにつかえさせたまま歩いていた。わたしにそれを言う資格はない。はしゃいでいるような、反面何かに急かされるようにして喋る長沼未幸を、まるで他人事のように眺めているわたしには、彼女に、忠告を装った文句をつける資格はない。わたしは、彼女に深入りする気はないのだ。彼女に恨まれるのも、責任をとらされるのも嫌だから、拒絶もしないだけなのだ。ただ、彼女が自分から去っていくのを待つだけなのだ。
 わたしはいつからこんなにつめたい人間になってしまったのだろう。自分のその無機質な思考に少しだけおそろしさをおぼえた。そして同時に、それは長沼未幸のせいに違いない、ということを考えた。どうしてわたしはこの子をそうまでして好きになれないのだろう。どこがそんなに嫌いなのだろう。

 わたしは時折、長沼未幸の話に対して曖昧に相槌を打ち、すこし素っ気なくしすぎたと思えば、呼び水程度に前の学校のことなどを尋ね、彼女が引っ越してきた団地のあたりまで一緒に歩いた。その間ずっと、彼女のどこが嫌いなのかを考えていた。
 その子供みたいな血色のいい頬が気に食わないのだろうか。今時二つのおさげにした黒い髪が嫌なのだろうか。言葉の間によく「うん」と挟む喋り方が嫌いなのだろうか。わざとらしいくらいにアイロンがしっかりかかった制服が好きになれないのだろうか。それとも、この学校のために新調しましたとでも言いたげな、ぴかぴかした靴だろうか。校則どおりに折った靴下だろうか。

 長沼未幸は、今日初めて口を聞いたような相手であるわたしに対し、前の学校のことなどを、面白いくらい無防備にたくさん喋った。流石に表立って「いじめられていた」とは言わなかったが、そんなことは話の端々から充分推測できた。無防備な子、とわたしは思いながら話を聞いていた。わたしの意地がもう少しだけ悪かったなら、この話は明日早速黒板に大書され、彼女は転校の甲斐なく再びいじめられッ子に逆戻りだ。全く、無防備な子。そんなだからいじめられるのだ。

 別れ際、わたしはそんなことを思いながら、「一緒に帰ってくれてありがとう、園子ちゃん、本当に嬉しい」と繰り返す長沼未幸に声をかけた。
「あんたさ」
 わたしは、この日、初めて本当の意味で長沼未幸に声をかけた。長沼未幸は一瞬目を丸くして足を止め、わたしの言葉の続きを待った。
「あんまり無闇に、人を信用しない方がいいよ。無防備だよ」
 わたしの声はつめたい声だった。どういうこと?と長沼未幸は本当に何も判っていないような声で聞き返した。
「いじめっ子って、どこの学校にもいるんだから」
 それがどういう意味なのか、ようやく彼女も悟ったに違いない。再び彼女は怯えたような目をした。一方のわたしはまたもや、その目を見ていられなくなって目を逸らした。わたしは、自分が目を逸らしてしまったという事実に苛々した。
「べつに、わたしは喋らないけど」
 苛々しているくせに気弱にも呟いて、わたしは彼女に背中を向けた。苛々した気持ちで一杯になった。それは、わたしが意地悪だからなのか、それとも意地悪になりきれなかったからなのか、判断はつかなかった。ただ苛々した。帰りがけに一度、道端の石を蹴った。

       *

 翌日、担任の先生から呼び出され、「長沼の面倒をみてやってくれ」と頼まれた。そんなものは学級委員に任せておけばいいでしょう、と喉まで出たが、言うのはやめておいた。成績が上がって以来わたしは、妙に先生受けがよくなっていた。長沼未幸のことなんかでその評価を棒に振るのもつまらない。つまらなかったが、安請け合いして後で面倒になるのはもっと嫌だった。はあ、まあ、とまったく煮え切らない返事をして、わたしは職員室をあとにした。

 わたしと長沼未幸の、奇妙な関係が始まったのはそれからだ。

 長沼未幸はわたしの後を、いつもくっついて歩くようになった。先生から、中杉を頼れと言われたのかもしれない。長沼未幸はまるでわたしを保護者だと信じるカルガモの子のように、くっついて歩いた。わたしもあまり背の高いほうではないが、彼女はわたしより背がひと回り小さい。まさにくっついて歩くという表現がぴったりのようだった。

 しかしわたしの方にはいつも、どうせいつ壊れても構わない関係だ、という意識がつきまとっていた。確かに先生から長沼未幸の面倒を見るように頼まれたが、長沼未幸がわたしに面倒を見てもらいたくないと思えば話は別だ。わたしが悪いわけではない。わたしは、初めて一緒に帰ったときには飲み込んでいた言葉を、先生から頼まれたという大義名分を嵩に、ずけずけと言うようになった。流石に、そんなだからいじめられるのよ、とだけは言わなかったが、ことあるごとに、かなり踏み込んで彼女の欠点を言い立てた。わたしは特に、「おどおどしないで」と長沼未幸に注文をつけた。時には、わざと彼女がおどおどしてしまうようにしむけてから言ったこともあった。その度に長沼未幸は泣きそうな顔をして、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝るのだった。

 ごめん、園子ちゃん、ごめん。
 謝らなくていいからおどおどしないで。
 ごめんなさい、気をつけるから、ごめんなさい。
 もう何回も言ってるでしょう。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 しつこいのよ。

 しかし、長沼未幸はわたしから離れようとはしなかった。考えてみれば、彼女はわたしと離れたら最後、昼食を一人で食べなければならないのだ。そんな彼女にとって、わたしという存在は最後の砦なのかも知れない。そう考えると、もっと彼女にやさしく、対等に接しなければならないと思うのだが、しかし、顔をつき合わせてしまうといつもうまく行かなかった。

 わたしはあなたの面倒を見るように頼まれたの、あなたよりも上なの、対等じゃないの。わたしは、あなたがいじめられない人間になる手伝いをしてやってるの。わたしの中には常に、そんな意識が巣食っていた。それはとても歪んだ感情だった。歪んでいるのに拭えない、いびつな身分意識だった。それをわたしはいつも長沼未幸のせいにしていた。あなたがいつも卑屈な態度をとるから、あなたがいつも鈍いから、あなたがいつもいじめられるような行動をするから、あなたが、あなたのせいなのよ。
 わたしはいやな人間だ。長沼未幸のいいところを見つけることが出来ない。見つけようとすることすらできない。長沼未幸の欠点ばかり、駄目なところばかりあげつらっている。注意の名を借りて、先生から頼まれたという大義名分を振りかざして、長沼未幸のすべてを、徹底的に否定している。否定して、自分の優位性を確認している。わたしはいやな人間だ。救いようがないくらい、いやな人間だ。

 なのにどうして、長沼未幸はわたしの後をついてくるのだろう。

       *

 ある日のことだ。
 朝から体調が悪くて、一人で帰りたい気分だったわたしは、長沼未幸が諦めて先に帰らないかなあと思いながら、黙々と本を読んでいた。クラスメイトのほとんどは順当にそれぞれ帰っていって教室はほぼ無人になっていた。長沼未幸は、おそらく、早く帰ろうよと言い出せずにいるようなそぶりで、教室の中をうろうろと歩き回っていた。その回りくどさがまた、わたしを苛々させた。何を遠慮してるのかわからないけど、帰りたいならさっさと帰ればいいじゃない。言いたいことがあったら言えばいいじゃない。
 勿論、本来はこちらから一言、先に帰って、と言えばいいだけなのに、それがどうしても嫌だった。先に帰って、と言えば長沼未幸は理由を尋ねてくるだろう。しかし尋ねられたとして、そのまま答えるのも癪だった。わたしはもともと体があまり丈夫な方ではない。これはわたしの欠点ではない、別に弱みではないのだと自分に言い聞かせるけれども、わたしは、わたしの体調について話をするのが嫌だった。特に長沼未幸に心配されるのだけは御免だった。長沼未幸に弱みのようなものを見せたくはなかった。ずきずきと痛むこめかみや重たい腰を、なだめるように意識しながら、わたしは本のページを機械的に手繰りつづけた。

 やがて、長沼未幸は私の向かいの席に腰を下ろし、まるで何か重大なことを言おうとしているかのように、何度か言いかけては止め、言いかけてはやめるような仕草をしていた。しばらく、気付かず本を読むふりをしていたのだが、いい加減鬱陶しくなって、本に目を向けたままわたしは険悪な声を出した。
「何」
「あの、園子ちゃん」
「何なの」
「具合、悪いんじゃない? …大丈夫?」
 いきなり言い当てられて、わたしは思わず本を閉じてしまった。
「べつに」
 咄嗟に、しかもちょっとした剣幕で言い返したわたしに、彼女は驚いたようになり、それからまた、おどおどした目をした。まさか長沼未幸に言い当てられるなんて、と、怒りのようなものがわたしの中で不意に湧きあがった。怒りに似ているが怒りではない。それは、多分屈辱のようなものだった。
 長沼未幸なんかに、心配されるなんて。
 わたしは言葉につまり、そしてその屈辱を、痛みをなだめるようにして押さえ込んだ。おまえはいやな人間だ。最低の部類の女だ。痛む頭に、そんな声が響いた。長沼未幸は、おまえなんかよりもよっぽど上等な人間じゃないか。おまえは人の心配をしたことがあるのか。おまえは、長沼未幸よりも下等な人間なのだ。わたしはその声に耳をふさいだ。いつもわたしがしていたように、厄介なやつを見るような目で見かえされるなんて、耐えられないと思った。
 わたしはいくつかの感情をかみ殺し、低い声でうなるように告げた。長沼未幸にだけはやさしくされたくない。わたしは本当にうなるような声を出した。
「先、帰れば」
 丁度わたしたち以外の、最後の生徒が教室を出た。部屋にはわたしたちだけになった。しんとした教室は、体調の悪さを加速させるような気がした。わたしは、さっきの言葉が勧告でなく命令だということを示すために、もう一度、乱暴に本を開いた。もちろん文字など頭に入ってこない。わたしは聞こえよがしのため息をついた。
「あの…ねえ、園子ちゃん」
「はあ?」
 今度は何を言い出すつもりなのだろう、わたしはこめかみを押さえて顔を上げた。そろそろ、しつこい、と言ってやらねばならない。見ると彼女は頬を、少し赤くしていた。
「私に悪いところあったら、言ってよ」
「…何言ってるのか判らないんだけど」
「私、何かしたんでしょ?」
「…」
「なんだか、園子ちゃん、怒ってるみたいだから」
 わたしは、一度何かを言いかけ、口をあけたまま彼女の顔を見つめた。めまぐるしく、色々な感情が頭を駆け抜けた。
「どうして、わたしがあんたのことなんかで怒らなきゃなんないのよ!」
 わたしはうっかり叫んでしまった。そして叫んだ後の一瞬で、自分の顔から血の気が引いてゆくのがわかった。どうしてこんな不意に激昂してしまったのだろう。しかも、わたしは今、咄嗟に、あんたのことなんか、なんて言ってしまった。しくじった。そういうことを言うつもりではなかった。しかし、引っ込みはつかなかった。わたしと長沼未幸は、表面上は対等の関係のはずだった。わたしはいつも、気を抜くと卑屈な態度をとる彼女に対して、対等らしく振る舞え、といつも言ってきた。なのにいつもわたしは陰で長沼未幸を見下していて、その上、とうとうわたしは、それを表に出してしまったのだ。

 わたしと長沼未幸の「対等」は、たった今、音をたてて崩れてしまった。

 彼女はいつも通りの怯えた目をしたが、わたしは目をそらさなかった。後には引けなかった。彼女の方が目をそらすまで、わたしは彼女の目をにらみつづけた。泣きそうな顔をしながらも、長沼未幸は泣かなかった。
「ばか!」
 わたしはいきなり机越しに長沼未幸の制服をつかんだ。机の脚が浮いて、派手な音がした。長沼未幸はまったく抵抗をしなかった。わたしにつかまれるまま引っ張られて、机に手をついた。長沼未幸は目を伏せ、少し震えていた。わたしはもう訳がわからなくなって長沼未幸の肩口を叩き、そして、その自分の行動に驚いて涙を流した。涙がぼろぼろとこぼれた。そのまま何度か泣きながら長沼未幸を叩いた。そして、引きずるように立たせて窓際へ押し付けた。
「あんた、どうしていっつもそんなに卑屈にするのよ!」
 長沼未幸は答えなかった。わたしは彼女の制服をつかんだまま、掃除用具のロッカーに押し付けた。長沼未幸がそうやって卑屈に、わたしの顔色ばかり窺うから、わたしはいつも見下してしまうのだ。わたしがこんなにいやな人間になってしまったのは、おまえのせいなのだ。わたしは、わたし自身へ向けられる憎悪を、そのまま長沼未幸にぶつけていた。彼女を掴む手が、震えるようにロッカーごと揺さぶった。ばしゃ、ばしゃ、とロッカーが金属的な音を立てた。
「何とか言いなさいよ!」
 長沼未幸はわたしと目を合わせようとしなかった。うつむいて唇を震わせている。しかし泣いているわけではなかった。
「……ごめん、ごめんなさい」
 長沼未幸は、小さく呟いていた。わたしは思わず平手で彼女の頬を叩き、自分の席にあった鞄を引っつかんで、逃げるように教室を後にした。

 廊下を、限界寸前の速足で歩きながらわたしは涙を拭った。角を曲がりきったところで息が切れて少しうずくまった。息がうまく吐けない。横隔膜が痙攣しているのがわかった。こんなに激しく泣くなんて、一体わたしはどうしたというのだ。わたしは自分を抱き締めるようにして、震える身体をおさえた。両腕に力を込めた。長沼未幸を叩いたこの手で、自分を絞め殺してやりたい。苦しくなるまでわたしは両腕に力を込めた。声を出したい、大声で泣きたい、と思った。けれどそんなことは出来ない。これ以上ぶざまなことは出来ない。どうしよう。どうすればいいのだろう。どうして長沼未幸の前なんかでわたしは泣いてしまったのだろう。
「おなかいたい…」
 わたしは壁に頭をもたせかけた。キリキリと痛んだ。

 相当の間、そのままうずくまっていたが、ようやくわたしは首を振るように壁へ頭をぶつけ、よろよろと立ち上がった。もう、どうなってもいい。わたしは息を吐きながら、言い聞かせるように思った。わたしはもともと一人なのだ。誰とだって卒業するまでの関係なのだ。長沼未幸が離れてゆこうと、何の問題もない。むしろきっと、そのほうが楽に過ごせるのだ。悪いのはわたしなのだ。報いはあってしかるべきなのだ。自分の行動の報いを受け、そしてその後は何ものにもわずらわされずに生きていたい。虫のように生きたい。別にほんの一時嫌な思いをするくらい、たいしたことではない。それは、しがらみを清算するために必要な対価なのだ。
 わたしはよい人間にはなれない。わたしたちは離れたほうがいいのだという確信のようなものがあった。わたしがよい人間にならない限り、必ずいつか同じ事を繰り返すだろう。同じことを繰り返して、わたしは何度も長沼未幸を傷付け、傷付けるたびに、より嫌な人間になってゆくのだ。マイナスの連鎖だけがそこには待っている。そして、離れたほうがよいのは、わたしにとってだけではなく、長沼未幸にとってもきっとそうなのだ。受け入れてくれる人はきっと探せばどこかにはいるだろう。

 昇降口まで来て、もう一度わたしは息をついた。どんよりと体中がつらい。もしかしたら、ついでに風邪まで引いたのかもしれない。腕を肩の高さへ持ち上げるだけで、すでに難儀した。わたしは、ようやく革靴を足元へ落とし、上履きを脱いだ。
 駆けてくる足音が響いた。
「園子ちゃん」
 長沼未幸だった。わたしは靴箱にもたれ、力なく彼女をにらんだ。彼女の頬は、わたしに張られた跡が、赤く残っていた。何も言葉が出てこなかった。ともかく、わたしと長沼未幸は対峙した。向かい合って、長沼未幸は胸を押さえるようにした。そこにつまっていたものを吐き出すように、長沼未幸は口を開いた。
「私、ダメだけど、でも」
 長沼未幸は、頬を赤くして、一語一語を切った。わたしは、彼女が何を言いたいのか判らずに、ただ息をつめて続きを待った。
「私だって、いい人間になりたいのよ、私だって、園子ちゃんの、役に、立ちたいのよ」
 そう言って長沼未幸は、いきなり泣き出した。立ったまま、長沼未幸は泣き出した。子供のような泣き方だった。ええええ、と声を出して長沼未幸は泣いた。
「園子ちゃんは、一人でも平気で、かっこいいと思うよ」
「…」
「私も、園子ちゃんみたいになりたいよ」
 泣きながら長沼未幸は言う。
「でも、時間がかかるよ、急には無理だよ」
 そして、彼女はわたしの手をつかんだ。その手は、あたたかいというよりむしろ熱かった。汗ばみ、そして熱かった。
「だから、園子ちゃん、私を見捨てないでよ」
 心がずきん、と痛んだ。取り返しのつかない間違いに気付いたように、肺から息が吐き出された。長沼未幸は、なんて愚かなんだろう。愚か、というには少し違うかもしれない。長沼未幸は、少し盲目的過ぎるのだ。わたしは、ここにきてようやく、わたしと長沼未幸の関係を外から眺めることが出来るようになった。それは、まるで密室の中に二人きりでいるような関係だったのだ。窓もなく、扉もなく、お互いに、お互いのことしか見ていなかったのだ。自分のことを見ていなかったのだ。

 わたしはそっと彼女の手をほどいた。おそろしく静かな気持ちだった。捨て鉢な気持ちではなく、ここが最後の線だという気がした。わたしたちが明日からも一緒に昼食を取るのか、それとも離れてゆくのか、その最後の線であると思った。わたしは、自分が何を言うのかはっきりとはわからなかったが、この瞬間がとても大事な瞬間になるだろうということだけは判った。
 わたしはゆっくり息を吸い、そして長沼未幸の目を見つめた。
「わたしは別にいい人間じゃないし、長沼はわたしになろうとしなくてもいいのよ」
「園子ちゃん」
「……それに、そういう目で見られると、わたし、息が詰まる」
 わたしはやっとの思いで搾り出した。少し違うかもしれなかったが、口にするとそれは、本当にわたしの心をぴったりあらわしたもののように思えた。考えてみると初めてわたしは、わたし自身のことを口にしたのかもしれない。
「でも」
「わたし具合が悪いのよ。長沼の言ったとおり、具合悪いの」
 わたしはとうとう告白した。
「熱も出てきたかもしれない」
 長沼未幸は泣くのをやめてわたしの顔を見上げた。
「でも言えなかったのよ」
 言いながらわたしは少しだけ泣きそうになった。なんだ、こういう風に言えばよかったのか。簡単なことだったのだ。長い間人と関わるのを忘れて、こんなこともわからなくなっていたのだ。
「叩いてごめん。本当にごめん」
 わたしは長沼未幸の目を見て謝った。もっと色々言いたいように思ったが、それが精一杯のようにも思えた。

 持ってあげるよ、と長沼未幸はわたしの鞄に手をかけ、わたしの横に並んだ。別に鞄を持ってもらいたいと思っていた訳ではないが、頼ることにした。鞄を持ったり持たれたりすることが大事なのではない。それくらいは判った。お、重たいね、と長沼未幸は意外そうな声を上げる。これ何が入ってるの。何って、本。短い受け答え。そしてしばらく黙ってわたしたちは立ち尽くした。
「私こそ、ごめんね」
 わたしの鞄を持ちながら長沼未幸は小さく謝った。しかし、それは今までの〈ごめんね〉とは違う声であった。卑屈ではない。おどおどもしていない。わたしは黙ってその言葉を受け入れた。
「でも、園子ちゃんって難しいよ。言えばいいのに。具合悪いって」
 長沼未幸は続けて呟いた。そして、小さく鼻をすすって笑った。
 唐突に自分が長沼未幸に対して苛々していた理由に気付いた。なんのことはない。もともと、わたしと長沼未幸はある意味において対等だったのだ。全て相手が悪いわけでも、全て自分が悪いわけでもない。わたしは本当に下らないことに気付いた。わたしが不当に彼女を見下していたように、彼女は不当にわたしを見上げていたのだ。
 そしてその距離が今、大きく縮まったことをわたしは知った。わたしは相変わらずいやな人間だし、長沼未幸は相変わらず人との距離が上手でないが、ここはもう密室ではない。もうわたしたちは自分自身を閉じ込めてはいない。わたしたちがいるところはもう、外なのだ。
 そのうちいつか、わたしが好きで孤高を気取っているのではなく、単なる仲間はずれなのだということも打ち明けようと思った。今、わたしと長沼未幸の距離は少なくなったけれど、取り払われたわけではない。感動や発見はいずれ薄れる。薄れてもよいように、わたしは、わたしたちは、お互いの身の丈を確かめ合ってゆかなければならない。

 そうして、わたしは熱で、長沼未幸は鞄の重さで、それぞれよろめきながら二人、並んで外へ歩き出したのであった。