芸術と自己解決。

わたくし申し上げたいのは一点。
「作家だが芸術家ではない」という存在はあり得ないんではないか。つまり、作家というカテゴリは芸術家という集合に内包されているのではないか、っちゅ一点。
僕としては「猫である以上動物だ」というレベルで疑いなくいたのですが、割と意地悪でない感じでそりゃ違うよ君って言われたのでしばらく考えてました。

論証しようと思ったけどあたくしそういうの割と苦手。ゆえにどことなく詭弁くさいが、何処がマズいか分からぬゆえに考えるそのままに記述します。
詭弁部分があったらご指摘ねがいます。以降しばらく語尾簡潔。

作家であるか否かは、作家でなくなければ作家であると仮定する。
すなわち、「己の生み出した作品によって対価を得たことのない者」以外を作家と定義する。
(生計を立てている、と限定するとひどく限定されてしまうので敢えて広げた)

芸術家か否かは、芸術家でなくなければ芸術家であると仮定する。
すなわち「己の生み出した作品によって他者のうち誰一人の心さえも動かしたことのない者」以外を芸術家であると定義する。
(自称芸術家を含めてしまうと集合が実質無限となってしまうのであえて「他者の」と制限した)

すなわち、芸術家でも作家でもないものの定義は簡単で、「己の生み出した作品によって対価を得たことがなく、且つ、他者のうち誰一人の心さえも動かしたことのない者」となる。この2つのうち、いずれかを満たせば、その者はこのカテゴリから外れる。
逆に芸術家であり作家であるものとは「作品を生み出したことなく、対価を得たこともなく、他者のうち誰一人の心さえも動かしたことのない」という条件のひとつさえも当てはまらない者だ。


では、芸術家であり作家でないものは何か。「他者のうち誰一人の心さえも動かしたことのない者」でない者のうち、「己の作品により対価を得たことがない者」となる。これは誰か。
物凄く粗く具体例をあげると、「人の心を動かす作品をタダで公開している者」、となる。
割と存在する。

では、作家であり芸術家でないものとは何か。
「他者のうち誰一人の心さえも動かしたことのない者」のうち、「己の作品により対価を得たことがない者」でない者となる。
ここに当てはまるのは具体的には一体誰か。いないんじゃないかと僕は思う。

仮にさっきの逆で、「人の心を一切動かさない作品を、有料で公開している者」と定義してみるがしっくりこない。誰一人の心も動かしていない、という証明は困難である上、対価を支払う時点で、支払ったその人の心はすでに動かしたということにならないだろうか。
対価は貰うが人の心を動かさない、というのは例えば「ロボットの音声認識プログラムのテスト用例文を考える人」などだろうか。アレだがそれしか思い浮かばない。

おそらく、「芸術家」というカテゴリ定義をもっと絞り、狭くすれば「作家だが芸術家でない」は成立すると思うが、今一つしっくり来ない。
作品発表の原動力が内在的か外因的かという絞り方は、作品の背景に頓着しない鑑賞を否定してしまうし、作品の完成度による絞り方も、数値化できないものを殺してしまう。感動した人の数で多数決なんて、人口が世界にふたりきりになったら芸術は死ぬのかっちゅ話であるし、有名な「犬の餓死」の例をあげなくたって人を嫌な気持ちにさせることで世界の何かを描き出すこともできるわけだから感動の質でフィルタリングってのもまたずれてゆく感じ。
そんなこんなで、全ての作家は芸術家であると断言してもいいような気がするんだけども。
いかがなもんでしょうかしらね。

で。
結局、それによって何を言いたかったのは忘れちゃいました。たぶん、「なにもしない」という芸術、つまり断筆という芸術は成立しうるかどうかとかその手のややこしいことを考えていたんだと思うんですが、こうやって細々とでも、見知らぬあなたへの文章をアップしているという事実に気付いて自己解決しました。
携帯なのに長文で柴三郎くんごめん(慣用句)。