鈴木先生

鈴木先生」という漫画がすっごいです。
問題が起こるたびに、水面下で必死にもがく白鳥のように脂汗ながして悶えつつ、癖のある中学生たちの前では完璧超人の皮をかぶって担任をする鈴木先生のお話(意訳)です。
この漫画の本当に凄いところは、鈴木先生が、自身を貫く思想を他人に押し付けないところ。自身の思想と、自身を取り巻く環境、またその環境において正しいとされていることの折り合いのつけ方がハンパないです。矛盾を放置せず、かといって自分も他人も否定しないという理屈のつけかた。
これは、普段、社会はどうして僕の考えた理想どおりにならないんだ!と嘆く諸兄の目から鱗のような何かがぽろっといく可能性があるんじゃないでしょうか。
なんか抽象的な言い方で申し訳ありませんが、例えば、物語の中盤以降、大きなテーマとして描かれている「避妊と生殖と愛」の問題について。
いわゆるセックスの問題について「生殖以外の目的ですることは不純か否か」、「生み育てる能力のない人間(ここでは中学生)がすることは正しいか否か」から始まり、『きちんと避妊をする中学生は、避妊をしない中学生を糾弾できるのか』というものすごい直球ではあるけれど今のテレビでは決して公開討論できないような問題にがっぷり取り組んで答を出した、というところでものすごくすっごい漫画だなあ、と思った次第であります。

これは実際に読んでみてもらうしかないとは思うのですが、この漫画では「何も否定しない考え方」が多く描かれています。正解を導き出すのでもなく、間違いを正すのでもなく、「お互いのどこが異なっているのか」をはっきりさせてゆく思考法というのは実は、ものすごく大切なことなんではないかと思います。
色々な考え方のうち、筋の通っているものすべてを「正しい」と仮定して、一見相反するように見えるそれらが矛盾せずに存在できる「考え方」を探すという思考法は、対立項っぽいものを前にしていきなり「どちらがより正しいのか」と考え出すよりも一段階、高いところから見た思考法のように思います。
世の中の大概の問題はX軸だけではなく、Y軸・Z軸まで座標を持っているわけで、一面しか見ないで「どちらがより絶対値が高いのか」にシフトしてしまうのは確かにとても乱暴だと思います。

お互いの考え方のどこが異なっているのか、どうして異なっているのかに気付けば、あとはそれぞれの理念の問題なので、折り合わなかったら殺しあうかどちらかにあわせるかをケースバイケースで選択してゆけばよいだけの話。

で。
その「鈴木先生」の7巻で書かれていた言葉がとても実生活に役立つのであげておきます。手元に本誌がないのでちょっと意訳になるんですが、例えば人と言い争いになったときのこと。

相手の喧嘩腰の態度にカチンと来て、怒鳴り返すのは「普通の行為」。
怒鳴りあううちに、正常な議論ではなくて本当に喧嘩になるのは、「普通の行為」が招いた「普通の結果」。
これは、決して悪いことではなくて、ただ普通に振舞った結果、当たり前の結果というだけ。

でも相手の喧嘩腰の態度にカチンと来たとき、もしこちらが「普通より上の反応」をすれば、当然結果も違ってくる。
我々は、「理知的にならなければならない」のではなく、「理知的に振舞うという選択肢を持っている」のである。
もしあなたが「普通以上の結果」を求めるのならば、「普通より上の反応」をすればいい。普通の結果でいいと思うなら、普通の反応をすればいい。
他人の「普通の行為」を責めても何も生まない。「普通」を責めるべきではない。

これすごい名言というか啓蒙思想だと思う。
常々考えていた「世界は無慈悲で理不尽なのが当たり前なのだから、そのことに対して絶望するのは意味ない」という考え方の一歩上を行かれた感じです。僕は比較的、自分を沈静化させ、時折訪れる奇跡に感謝するためにその題目を唱えていましたが、そこから一歩踏み出して自分が関わることで世界の導き出す「結果」を変えられるかもしれない、というのはとてもいい考え方だと思います。
あと、他人を責めなくても済むしね。

っちゅわけでid:zidrak:20091018さんとこで紹介されてたよそのガキ叱った話についても、娘に意地悪されたこの男性の行為は「きわめて普通」、相手の反応もすでに今の社会状況では「まったくもって普通」。でも男性がもっと「いい結果」を求めてたんだったら普通より上の反応すればよかったよね、で済む話ではございますまいか。
ここでいう小町たちの反応の気持ち悪さは「(男だから)(大人だから)(社会人だから)(注意する側だから)トピ主は普通より上の反応をして当たり前」、「(わたしは努力しないけど)普通より上の結果が出ないような行動をするのはおかしい!」というナニが原因じゃないかなあ。
というか小町は所謂ナニの釣堀でありますゆえ、遠巻きに眺めてたまに自分のブログなどで小町ごっことかして遊ぶのがいいんじゃないでしょうか。

水筒の子の件については、アレですね。心中お察しします。
個人的には、そういう駄々っ子は被害妄想的な感じで駄々っ子になっているように思うんですが、どうなんでしょうね。「ぼくはどこで何を主張しても否定される!」みたいな。何か、いっこでも自分の力でたどり着いた答が「世間的に認められる良識」みたいなのと(奇跡的に)合致すると、一気に見える世界が反転して視野が広がるような気もするんだけど。