はてさて

我々の世界で地味に効いてくるステータスはいわゆるLUC。50億人のキャラクターがいると、STRやVIT、INTだって同じステータスの人は結構多い訳で、まあ、それを言ったらLUCだって同じことなんだけども、他のステータスが同一だった場合にいつも第二判断基準になると仮定すると、汎用性高いなあ、とか思う訳です。ま、その仮定自体そんな訳ないんだけど。
ともあれ仕事の話。

結論から言うと僕、今、いわゆる障害者雇用の業界に転職をしています。正確に言うと勿論そんな業界は存在しなくて、でも、現実では障害者が働ける仕事はまだ、すごく限られています。だからあえて「業界」と表現します。

この業界に飛び込んだきっかけは、というとあまりオシャレな話ではないのだけれど、勢いで会社をやめたことが一番でした。
勿論、前に働いていた会社だって、何年かは一生懸命勤めただけあって色々あったのだけど、震災後、出来損ないの利益主義とか中途半端な成果主義とかに傾倒してゆくさまに嫌気がさしてしまいました。
働く人が耐えないと利益が上がらない仕組みって、植民地政策やら封建主義と同じで、土地がなくなったら即座に行き詰まる仕組みな訳ですよ。そして、地球は丸いので土地は有限な訳です。そう遠くない将来に理論上必ず崩壊するシステムなら、それはネズミ講よりもお粗末な訳です。
ともあれ。

では、正しいビジネスモデルって何よ、とか一人で考えていたのだけれど結論が見えず、でもまあいいやめんどくせえ取りあえずお前んところでこれ以上無駄な時間過ごすのはナシだっつって、勢い、転職活動を始めたのでありました。新婚なのにね。うひひ。

当時の僕の中で渦巻いていたものは「声をあげない相手には何したって構わない」という暴力の論理でした。これに立ち向かうにはどうしたらよいものか。そんなことを僕は考え始めました。

給料を下げても文句を言わないやつからは容赦なく下げちまえ、だとか、仕入値引を飲んでくれるところには遠慮なく無理言っちまえ、だとか。
それってビジネスじゃないし、それをコスト削減って呼ぶのは全然まっとうじゃないぜ、とか思ったわけなのです。でも、だからといって「こんなの、おかしいよ!」と叫んでもどうなるわけでなし。魔法少女無力。

では、その弱い立場に立っている人たちは一体どうやって身を守るのか、ということを思いました。
僕が身を挺したとしてても、彼らのすべてを守ることはできません。人は己自身によってしか、救われることはできないのだと思います。我々はただ弱いままでいることを許されず、どうにかして身を守らなければならないのです。
しかし、それが「もっと弱い立場の者を差し出す」という行為によって為されるのだとすれば、それは、生存戦略ではなく、かなしい行為だと思うのです。

人を貶める人はかなしい。
そしてそれが、己を守るためというのはもっとかなしい。
そのかなしみを自覚していない人を指して、「邪悪」と呼ぶのだと思います。仕方がないとか、これが資本主義だとか、意気地のない言い草で誤魔化してはならんのだと思います。

人を邪悪に染めるのは恐怖です。なんと言い訳しようと「自分が狩られる側に回る恐怖」が、人をかなしい行いに駆り立てるのだと思います。*1
個人で恐怖に対抗するのはとても難しいことです。

弱い他人をkillしてrootするというのは、ゲーム的にはすごく楽な行為。現実世界でやるのがよいかどうかは別問題として、弱いものを狙うのですから返り討ちのリスクの少ない逃げ道です。
そんなPKを「屑の所業」と否定するのは簡単だけど、それもまた、野暮な話。何かを力でねじ伏せるのは、あたらしい恐怖の種を生むだけの話。

世の中には無数の「恐怖」が存在していて、それを消し去ることは出来ないんです。そして、その恐怖に突き動かされた生存本能の暴走が、「ふつうの人」を「他人を苦しめても構わない人」に変えてしまうのです。
なのであれば、邪悪を許さないというのは、己の矜恃しかないんです。怯えること自体はどうしたって制限出来ないし、怯える人々を、より強い恐怖で支配するのはナンセンスなのです。だから、「他の人がどうであれ、僕だけは、自分より弱い人間を踏みつけない」という個人的なアクションの他にできることは何もないんです。

まこと世は自由なりけり。世の中で、他人を食い物にする人間を根絶することは実に難しい。というか根絶は不可能。ヲベロンくん考えてることはただの理想論だよー、で、とっぴんぱらりのぷう。

…とまあ、結論は出たのですが、まいったなあ、とは思いました。
矜恃を持たなければ、邪悪に染まるも染まらぬも運次第ってことです。
企業環境と経営者次第。突き詰めるといつもこうだよなあ、という感じですね。
僕が理想とする、野暮でない手段を確約した構造形態の会社は、論理的に存在しない。これが現実。

まあ、しばらく悩んでいたのですが、逆にとってみることにしました。
自分がよい生活をするに至る道は幾つもあって、その手段がみっともないことにならない保障はどこにもないわけです。
つまり僕は、目的のために手段がどうにかなってしまうことが気に食わない訳です。
なら、最初から手段と目的が一緒のことをすればまだいいんじゃないのかな、と。

でもって選んだのが今の仕事です。
企業の、法定雇用率である1.8%の障害者雇用を行う部門。
つまり存在目的が特殊なんです。社長の一族を肥え太らすためでも資本主義的に勝ち組になるためでもなく、「障害者雇用を広げること」がここの第一義。そして、その活動を継続するために収益を上向かせるという組織。
つまり、何が言いたいかっちゅと、「収益」という目的と、「障害者雇用」という手段が同列に並ぶ、ということなのです。
勿論収益が上がらないと、ただのお荷物部門になっちゃうわけですからそれも疎かには出来ない訳ですが、少なくとも「利益の為にはなりふり構わねえ」という気勢ではありません。立ち振る舞いに制限を設けているのは、ある意味では「矜恃」と表現してもいいのかもしれません。ま、レゾンデートルといえばそれまでだけども。

ともかく「障害者雇用で」「収益をあげる」という構造からブレようがないわけです。ここにめでたく手段と目的一致。組織の変質が解体を意味するというのでわたくし、心の平穏を見出しました。目的がコロコロ変わらないのって本当ステキよね。
考え方によっては、業種だの業務形態だの規模だのが限定されるので面白くないかも知れませんが、今の僕にはとてもやりがいのありそうなお仕事でした。生きるという目的のためなら何やってもいいべよ、という時代を過ぎ、もう少しゲームに制約をつけてプレイしたい時期なのあたくし。
フラフラしてる時に、ちょうどいいタイミングで誘われたということもあるし。

そんなこんなで、今まで縁のなかった業界に飛び込んでます*2。色々、見たことのない文化があって驚く毎日です。
そのあたりはこれから少しづつ書いて行こうと思います。タグの『漂流記』は、なんとなく似合ってるような気がしてつけました。別にフラフラ流れる訳ではありませんが、しばらく、お仕事に関する漂流物を書き留める予定。

*1:稀に、人が苦しむのを見てよろこびを感じる人もいますが、これはまっとうな「悪」と定義していいんじゃないでしょうか。倫理や必要性を超えた欲求の発露。社会状況によって許されるか許されないかの違いがあるだけで、「自分らしくあるための努力」。人を助けたいという気持ちと、ベクトルが違うだけで絶対値は一緒。これを「邪」とは呼べない気がします。そして、その嗜好を取り繕おうとしない限り、僕はその「自分らしさの希求」を肯定します。身近に迫って来たら断固戦うけど。

*2:去年と今年で特例子会社とかも増加してるので身バレもしないはず、という考えから公開です。あと、そろそろ身バレを怖れて黙るのやーめた。