世紀末

本日の世紀末カフェのスペシャリテは「農民から奪った種芋で作った贅沢ポトフ 、缶詰肉のモヒカン仕立てを添えて」です。

ところでsekai no owariって聖飢魔IIのリスペクトバンドじゃないんですね。
…お前も足立区民にしてやろうか!(脈絡なく使っても大流行)

あと、社会復帰があまりにも良い方向で進んでいるので、お祝いにプレステ3を買いました。半年前は生きるのって大変だわぁとか思ってたんだけど、子供生まれて蒼天航路プラネテス読み返したら全然イケるということに気付きました。

前の職場は本当に息苦しいというか、端的に言うと上司が常軌を逸したバカだったのでアレだったんですが、少なからず彼女に思考を囲い込まれてたんだなあと思うことが最近ほんと多いです。
バカなだけなら構わないけど、地位の高低と人間知能の発達が、因果関係に似た正比例関係にあるという信念の持ち主だったのが問題だったんだと思います。
要は、知能の優劣が地位に寄与することはあるけど、地位が知能を決めることはない、という当たり前のことが理解できない人でした。部下は「部下だから劣っていなくてはならない」ってな具合。どうしてあんなにバカに育っちゃったんだろう。責任者誰?

ともあれおかしなもので、間違った抑圧でもあんまり繰り返されてると、僕が間違ってるのかなって気になってくるからアレです。洗脳って不思議。
踏まれ続けてる人達の一団の中で、一人だけ無視されて阻害されてると徐々に「僕も踏まれたい」と思うようになる人間心理の奇妙。「皆と同じになりたい」ってのは、そこそこ強固な人間の本能なのかも知れませんね。

いずれにせよ子供も生まれ、バカから離れて自分を見つめ直すことしばし。軽い学習性無力感の森を抜けて辿り着いた結論は、ずっと昔に身についていたはずのものでした。

やはり砂漠に種を撒くのは、趣味の範疇でするべきなんです。客観的に見て無駄なことに労力を費やすことが、生活の担保であってはいけないのです。
生きるのはそれほど難しくないのだから、個人の好みでない限り、僕たちは耕作地を選ぶことができるのです。狩場を選ぶことができるのです。
旅立つことを怖れる気持ちは、僕が怖れていることで得をする誰かが、悪意を篭めて植え付けたものでしかないのです。

この世で己を縛るのは己のみ。もっと闊達に生きてよいのだと思います。
すでに二度溺れかけた僕ですが、もう、二度と溺れることないんだと思う。

雨おわり。また晴れた。