創作について。

先ほどまでkumarine女史とお花見ついでに創作について歓談をしていた。実は、今度合作というやつをするのである。今風に言うとコラボである。以前taroくんと映画を作った時のように、またもや僕が原作。漫画をkumarineさんがするわけである。
その漫画には保健医が出てくる。この保健医がどんな人物かについて僕らは梅酒だのをちびちびやりながら話していたわけであるが、保健医といえば少なからず思い出がある。
このところいつも携帯電話からのおざなりな更新が続いている。今日は自宅からする久々の更新。なので、今日はその話をしようと思う。少し長い話になる予定だ。

僕が小説を書くようになったのは高校のころの話だ。というのはもう何度も言ったことだろう。そして、そのことについて、嘘ばかりついていたので、裏切られたと感じている人もきっと沢山に違いない。僕は決して本当のことなんか言わない、と思っている人も大勢いると思う。
もっとも僕が自分の人生の履歴について嘘をつくのは、大概何かを隠したいときだ。その嘘の話は現実からかけ離れていたりするかもしれないけれど、反面、すべて真実なのだ。自分のついた嘘の中に、僕は自分に向けての手紙を潜ませる。その嘘の中に含ませたたった一つのキーワードさえ耳にすれば、僕は現実に起こったことのすべてを思い出す。僕が嘘をつくのは、思い出を嘘に変えて話すのは、何よりも自分が忘れないためだ。僕は本当のことを書き残すよりも、嘘のことを書いたほうが忘れないでいられるのだ。けれど、時にはそうでないときもある。嘘をつく振りをして、本当のことを書きたいと思うときもあるのだ。これは嘘ですよ、と前置きをすることによっていろいろなものから逃れることもできる。
僕がこれから書くことについて読んでくれるのなら、いつものように嘘だと思ってくれて構わない。嘘つき、と罵られても僕は傷つかないし、これからする長い話を聞いてくれるのであれば、あなたにはその権利がある。
これは僕が小説を書き始めたころの、つまらない話だ。実は、もう小説を書くのを止めよう、と思ったことが何度かある。そのときの話だ。

僕は高校のころ、小説を書いていた。主な読者は級友だったが、中に大人の読者が一人だけいた。それがS先生だった。S先生は養護の教諭だった。当時の僕からすればまさに年上の人、だ。けれど今にしても思うとS先生はまだ若かったと思う。今の僕が26だから僕よりもひとつ年下だ。人生悟るような年ではない。だが、当時の僕からすると、もうびっくりするくらいに人生を知っているように見えていた。

当時の僕はまったくもってかわいらしくない子供だった。ニーチェだのフロムだの寺山修二を読んで、本を読んだ程度で世の中を斜に見て、サブカルくさいことばっかり言っていたのである。部活はすぐにくだらなくなって辞めてしまったし、学校も休みがちであった。不登校の基準というのは年間欠席が50日を越えることだというが、その基準に照らせば正しく僕は不登校児であった。自分ルールで週休二日をとっていたのだ。月曜を休んだ次の週は火曜、その次は水曜、といった風に、自分でスケジュールを取って週休二日をしていた。もっとも、その法則は早いうちに担任の先生などに知れることとなり、自分ルールでの休みの前にいつも呼び出され、お前、あと一日でも休んだら大学に推薦しないからな、と脅かされた。もちろんいつだって僕は自分のリズムを崩すことなく、翌日は元気に欠席した。
当時から、学校の先生だって人の子だ。寝覚めの悪いことはしたくないに決まっている。無駄に人の人生を左右するようなことはしないだろうと思っていたのである。かわいらしくない子供である。その上、大学推薦もきちんと取り付けた辺り、まったくもって腹立たしい子供だったといわざるを得ない。
話が逸れた。不登校だった話だった。確信犯的な不登校というのはすでにサボることに味を占めているので、たまに学校に出てきたとしてもまじめに授業を受けるなどということはない。大概面倒くさい授業のときは保健室に入り浸ってぐうぐう寝ているものであった。僕もその例に漏れないものであった。

僕は保健室に入り浸っていた。今にして思うと保健の先生もよく容認してくれたものだと思う。大人になった今、改めて思うが、許してくれたことだけでなく、頭を引っぱたかなかっただけで本当に寛大な先生だったと思う。僕はいまだに、先生にだけは年賀状を出す。
「先生、先生、僕は数学の担当のGって人が苦手でね、本当に授業を聞いているだけで虫唾が走るんです。あんなボンクラの吐く息をかいでいたら脳が腐ってしまう。だからきっかり二時間だけここで放っておいてくれませんか。二時間経ったら教室に戻りますし、先生の邪魔はしませんから。でも、ええと、ところで先生、オセロは得意ですか」
…まったくもってムカつく子供だと思う。

実際のところ、僕も始終先生の邪魔をしていたわけではなく、本当に寝ていることが大半だった。よく寝ていたものだ。家で夜更かしをしたわけではない。疲れることをしていたわけでもない。大抵僕は保健室で、寝るか、さもなくば先生の本を失敬して読んでいるかしていた。先生は養護の先生らしい、人生のハウツー本のようなものをよく持っていた。僕はその類の本を表面上、小ばかにしていたが、読んでみるとそれなりに面白いこともあった。
あとは、先生が不在になるときだけ、持ってきたノートに小説を書いたりしていた。僕はなかなか不遜な学生だったが、小説を書いているところを先生に見せたことはなかった。だってそうじゃないか。先生と二人きりの保健室である。授業を抜け出してきた生徒がノートに何か書き付けているとくれば、無視するわけにもいかない。何書いているの、と聞かざるを得ないじゃないか。そんな鬱陶しいことはしたくなかった。僕は当時から、ダメ人間であろうとも恥知らずにはなりたくないと思っていた。

S先生に、僕は小説を書いているんです、と告白したときのことを覚えている。一度、本気で問い詰められたことがあったのだ。高校一年の冬のことだった。あなたは逃げている、とやられた。やりたいことがあるならいいけれど、ここに来てあれがいやだ、あいつが嫌いだって言ってばかりじゃないか、と叱られた時だった。そのとき、勢いあまって、小説を書いてるんです、と僕は確かに告白した。胸を張って読ませられるものではないけれど、先生には読んでもらいたいかもしれません。その時、机の横にあったしゅわんしゅわん言うストーブの音を今も思い出せる。大人に対しての初めての告白だった。
それ以来、僕は書いていたものを先生に読ませるようになった。今にして思うと、頭を抱えてしまうような粗筋のものが大半だったが、片っ端から僕は先生に見せた。先生が面白いと言ってくれるのが嬉しかったし、正直なところを告白すると、僕は先生に恋をしていた。

唐突に何も書けなくなったのは、高校二年の冬だった。
何を書いても同じような気がしたのだ。僕は先生に読ませるためにずうっと小説を書いていたが、書いているうちに、なんだかよく判らなくなってしまったのだ。それは僕が書かなくても誰かが書いた物語だ。それを読んだからといって何か身に残るものがあるのだろうか。この間書いたものと、なにがどう違うんだろう?たくさん味の種類があったって、所詮全部ただのポテトチップスじゃないか。よっぽど光り輝くものじゃなければ、世の中の人は細かく区別なんかしない。
当時、僕はまだ17にしてすべて自分の書けるもの、書きたいものを書き尽くしてしまったような気分になっていた。当時の僕は一人称しか書けない子供で、その物語の主人公たちはやっぱり似たようなキャラクターだった。圧倒的に僕には現実の、人生の経験が足りなかった。もしかしたら、人よりたくさん本を読んでいたつもりだったが、それもまた、足りなかったのかもしれない。とにかく僕は枯れてしまった。出し尽くしてしまったのだ。

しばらく悩んでいたが、僕は先生に正直に告白した。
「書けなくなりました。書くべきことを終えてしまいました。何を書いても同じだし、これ以上やっていたって意味がないように思うんです。好きなことを仕事にしたい、って言えません。自分でも、これが商業に載るだけの実力がないって判ってるんです。結局、なんだって中途半端なんです。世の中も、自分自身も無意味だ。無意味だと思うんです」
それは保健室ではなく、喫茶店の一角のことだった。学校から離れた駅だ。白楽の駅。僕の家とも先生の家とも違う方向にある駅の喫茶店だった。そこは坂の町だった。もう日暮れて暗い窓の外に目をやり、先生は少しため息をついた。僕はまるで熱に浮かされるように先生の言葉をさえぎった。
「そうですよね。そりゃあ、こういう風に生徒から言われたら、そんなことないよって言うしかないですよね、判ってるんです。でも判ってるんです。自分で自分のことくらい判ってるんです。慰めてもらいたいわけでもないし、同情を買いたいわけでもないんです。だから、もういいんです」
あまり口も利かずその日は、お茶だけ飲んだ。

次の日学校で、紹介したい人がいる、と先生は言った。実は前から会わせたかったんだけど、今は本当にちょうどいいと思うから、と先生は言った。押し切られるように僕はその人と会うことになった。

土曜日の渋谷だ。
その人は年の頃で言ったら先生よりもいくつか上だろうか。三十代か、二十代の後半か、落ち着いた雰囲気の男の人だった。学生時代からの友達だ、と紹介された。Nさんという人だ。
ともあれ僕は書くべき事がなくなってしまったと嘆いている最中だった。見知らぬ人相手に話すことなどない。紹介を受けて挨拶をしたきり黙っていると、その人は勝手に話し始めた。
「君、小説を書いているんだってねえ」
きっと僕はこわばった顔をしたに違いない。Nさんは手を振り、S先生の方を見た。
「大丈夫、Sは勝手に人のものを他人へ渡すようなやつじゃないよ、ぼくは君がどんなものを書いているのか知らない。ただ、学校に小説を書いている子がいるっていうのは前から聞いていて、前から会ってみたかったんだ」
どんなものを書いているのか知らない、と言われてなんだか妙な気持ちだった。僕はまさか読んでもらいたがっているのだろうか?読んでもらって、才能ないね、と明確に否定されたい、という気持ちと、自分がダメだと思っても他人にはいいと思えるところがあるのかもしれない、というごくごく微かな希望のようなものが混じっていた。もういい、と言いつつも、僕は自分の言葉を信じていなかった。本当にもういいのか、他人に決めてもらいたいと思っている部分が、恥ずかしい話だが確かにあった。要は、自分で自分に見切りをつけるかそれとも信じるのかどうか、決めかねていたという訳だ。
そんなことを考えている間にNさんの自己紹介を聞いた。今やっている仕事だとか、S先生と学生時代に一緒だったサークルの話だとか。

自分の気持ちもわからなかったが、先生の考えていることもわからなかった。S先生はどういうつもりでこの人を呼んだのだろう。
Nさんは僕の表情を見て、一旦S先生との話を止め、べつの話をはじめた。それは彼の妹の話だった。
「実はね、ぼくの妹も高校の頃小説を書いていたんだ。それを知ったのはもう、ずいぶん後のことでねえ、兄妹なんだから、見せてくれたっていいと思うんだけども、やっぱり小説を書く人っていうのは難しい人で、難しいんだろうねえ」
Nさんの話し方は少しとぼけている。怒っているところが想像できなかった。落ち着いた大人の男、という感じだ。
「うちの妹は、賢いやつで、小さいころから国語が大好きで、いや、大好きってわけではないのかな、でもとにかくたくさん本を読んでたんだ」
「そうですか」
「すごいんだ、中学のころにはもうなんだかぼくにも読めないような本を読むような子でね。それが実はこっそり小説を書いてたって知った時、ああなるほど、あいつは神様に選ばれたんだなあ、って思ったよ」
もしかしたら、Nさんの妹は新進の作家なのかもしれない、と僕は思った。N、N、N、その苗字の作家を幾人か思い浮かべてみた。でもどれも、どうやってもNさんより年上だ。すでに死んだ作家もいた。Nという作家が思いつかないまま、黙ってその話を聞いていた。
Nさんの妹自慢は割と長かった。作文で取った賞状がまだ何枚飾ってあるだの、トロフィーがあるだの、新聞に載ったこともあるだの、高校のころにラブレターが何通来ただの、痴漢を本の入った鞄で撃退した話だの、近所の子供に漢字を教えてあげていただのと、本当に自慢話ばかりだ。時折、持ち上げすぎて座りが悪いこともあったが、僕は我慢して聞いていた。そして、ついに我慢しきれなくなって尋ねた。

「それで、Nさんの妹は、プロになったんですか?何かの雑誌や賞でデビューしたんでしょう。でも思いつかないんです。Nって人を幾人か思い浮かべたけれど、どれもすごく年を取っている。それとも何か、違う名前をペンネームにつけたんですか?」

ちょっとさえぎるみたいに尋ねるとNさんは、一瞬驚いた顔をしたものの、すぐにもとの、にこにこした顔に戻った。
「いいや、プロにはならなかった。デビューしなかったよ」
僕は黙った。どういうことだろう、と目線をやるとS先生はちょっとそっぽを向いて煙草に火をつけた。先生がふうっと通路の方を向いて最初の煙を吐くまで、ゆっくり待った。
「やっぱり、書けなくなったんですか」
かろうじて、「僕のように」と付け足すのを抑えた。自分を、キャリアも何もかもが違う年上の人と並列に語るほど恥知らずではなかった。
「書けなくなって、書くことを、止めてしまったんですか」
Nさんは小さく首を振る。
「いや、あいつは書けなくなることなんて一度もなかったよ。書きたいことが溢れてきて困るって、いつも言ってたし、実際いつだって何かしらを書いてた。」
じゃあ一体なんなんだろう。僕は謎かけをされているような気がして、少しムキになった。S先生は答えを知っているのだろうけれど、ヒントを出す気さえないみたいだ。あいかわらず外を向いて、滅多に吸わないほそい煙草を吸っていた。
「じゃあ、賞状をたくさん貰っても、新聞に載っても、商業は別物、というやつですか。やっぱり文章も厳しい世界だとか、そういう風な」
「そういうわけじゃないと思う。贔屓目もあるんだろうけど、客観的に見て、才能あったと思う」
「どういう訳か判らないけど、本人がデビューを望まなかった?」
「違うね」
だんだんヒントが少なくなってゆく。
「じゃあ、覆面ライター、とか」
「いいや」
「デビュー直前に結婚して家庭に入った?」
「違う」
「…すごく恥ずかしがり屋だった?」
「確かに照れ屋だったけど、そうじゃないよ」
わからなかった。
次の答えを促すようにNさんはこっちを見た。どうせ僕なんかには賞状を貰ったり新聞に載ったりするような才気溢れる人の考えることなんか判りませんよ。僕は首を振って正直に言った。
「判りません。書くことがあって、書いていて、才能もあって、世に出ることを恥ずかしがらない人が、デビューしないわけがない」
そうするとNさんはちらっとだけ目線をはずした。そして、首を振る。
「デビューしたよ」
「ちょっと待ってください、さっき、デビューしなかったって」
「うん、言った。でも、確かに妹はデビューしたんだ」
Nさんは短い息を吐く。

「生きていれば、だけどね」

生まれて初めて、人の言葉で僕は、頭がぶん殴られるような衝撃を受けた。があん、と音が実際に聞こえて、もう頭が真っ白になった。Nさんはにこにこしたままだった。正直なところ、僕はそれがどういう意味なのか理解した途端、ほとんど反射のようにぼろぼろと涙を流してしまって、Nさんをひどく慌てさせてしまった。
僕は、自分の甘っちょろい想像がNさんにどう聞こえていたのかを考えた。生きてるのって当たり前じゃないんだなあ、と思った。
その後、ほかにどんなことを言われたのか、具体的にはほとんど覚えていない。僕は何か喋れただろうか。たぶん、押し黙ったままだったと思う。

彼の妹が僕と同じ年で入院したということ。19までは生きたということ。くやしくないよ、と言って死んだということ。くやしくないよ、というその言葉は、自分の耳で聞いたわけでもないのに、ものすごく残っている。
Nさんは言った。
「君たちは時間がたくさんあってさ、『一休み』できる。これって大事なことだとぼくは思うんだ。だから自分のことを決め付けないで、有用に、すごく有用に一休みしてほしい」
話が終わるころ、S先生は少し震えていた。長いまま火を消した煙草を持って、ごめんね、と小さくNさんに謝り、Nさんは、いや、ひさびさに妹の役に立てた気がする、とシンプルに、水みたいに言った。

「勝手なことを言うけど、プロとかアマとかじゃなくても、小説を書く人が増えて、残っていくと、妹もきっと喜ぶと思うんだよね。いつかまた、書くようになってくれると、個人的にはすごく嬉しいよ」
帰り際、Nさんは僕だけに言った。

僕はそれまでの人生、いろいろなものを見ていたようで、本当は何も見ていなかったんだなあ、と思った。
僕程度で、才能が枯れたの枯れないのって、くだらない、と心から思った。書くことがあれば書くし、書くことがなければ書かなきゃいい。それでいいんだと思った。さっきまで、自分に見切りをつけるだのなんだのとグダグダ考えていたのがバカみたいだと思った。
やっぱりすぐに小説は書けなかったが、僕の中で何かが変わった。あせらなくなったし、無意味だと思うこともなくなった。とはいえ相変わらず僕は学校をサボってばかりいたけれども。
それはまわりのものを吸収するチャンネルがひとつ増えたような感じだった。そのあたりのバランスを、インプットとアウトプットでよく表現するが、きちんと正しいやり方でアウトプットの穴を塞げば、そりゃあ何だって体のなかへ溜まるのだ。溜まれば、それは物語になるのだ。
そして何年も過ぎ、僕は大人になった。大人になるまで、小説を書く時期、書かない時期、くっきり色分けして生きてきた。きちんと生きることを優先して世界を感じながら、体の中に溜まった絵の具が溢れるのを待ち、そして初めてペンを取るような生活。

そういう生活を送ってみてやっぱり、書かなければ生きている意味がない、と僕は思わない。書くことは人生の二番目、三番目でいいと思う。このブログでも、その前の日記でも、僕は繰り返し書いている。小説よりも楽しいことは幾らでもある。まず、楽しく生きてほしい。書くことがつらいなんて、思われたらちょっと切ない。

思ったよりも長くなった。これを読んでも、多分今ひとつぴんと来ない人の方が大勢だと思う。僕がいつ、どうやって嘘ですよと宣告するのか楽しみにしている人もたくさんいるだろう。
だがそれでいいと思う。これは僕が、僕のために書き残す文章だ。それで十分。でも、もし僕の思ったことの何分の一かでもあなたに伝わればいい、と僕は思う。
僕は、Nさんの妹のためにも書かなきゃ、なんておしつけがましく思ったことはない。だが一方、もう何年も昔、同じ時代で、そうした一生を送った人がいたということを忘れたこともない。僕たちは自分がそれぞれ恵まれた人間であることを自覚し、それに引け目を感じることもあぐらをかくこともなく、ただ、素直に、身の丈で、生きていくしかないんだと思う。
本当に長くなった。おやすみなさい。