足袋一族よりの寄稿

其を身どもの知りけるは、雨の落ちたる夜明けにて候。雨露の朝顔を濡らしぬ様を、半ば朽ちたる簾のあちらに眺め、動かぬ足に難儀する軒先にて候。身ども日の本にあらば足のほかに不自由なく、死ぬるも生くるも自在也。軒に身を寄せ、籠に寝たる今の身上なれど身どもかく覺へり。
さては遠く海の彼方のなにがし女の軒にて暮らすはらからのことなど思ひ考へ、此に記す次第なり。
足袋一族とはいへ身どもたりとて四ツ足、いまだ猫に籍ある身なればひと事にあらじ。ただ思ふるは何ゆへ、かかる女の家の猫は逃げ出さぬものかと。目の開かぬ仔を放るは成る程、鬼女の仕業なれど、甘んじて幾度も受くるは何ゆへ也しや。かかる仕打ちに辛抱せねばならぬ道理やあらじ。さらば鬼女よと身を翻し、仔の父と暮らさぬのは何ゆへか。かかる猫、望んで鬼女と暮らしぬると云はれてもやむなし。余人にとやかく云はれる筋合ひもなし。
蛇足ながら申し候へば身どもみるところ、なにがし女の、えっせい、なる文には筋なく肉なく理屈、縦読みさへあらじ。いつそ鬼女なら仔喰らへば恰好のつくもの。身の丈にあらぬ釣り文に寄せる感想や持ち合はせぬ。身ども釣りたしと望むれば、かつぶしをば抱えるべし。